7.朔 【表】

窓辺の花瓶の水を今日も入れ替える。
さした花はもう枯れかかっていた。最近は摘みに行くことも減ってしまったから無理もない。

そのすぐそばのベッドで横たわるのはオレの愛しい人。目を閉じて静かに呼吸をしていると生を感じないくらいだ。だけどわずかに上下する胸は生きていることを伝えていた。

明日は出かけよう、と約束したはずのその人はすっかり眠ってしまっていた。
ここのところほとんどそうだ。明日こそ、今度こそと言いながら申し訳なさそうに眠くてとても動けないやと言う。

オレが思うに、きっと調子がよくないんだろう。
吸血鬼は強くて長生きで死んだりしないって聞いていたけど、何か悪い病気にでもかかってしまったのだろうか。
このままいなくなってしまったら、いやだ。ずっと一緒だと約束したのに。

本人は不調を訴えることはない。ただ眠いのだと、そう言う。
だけど、ただ眠いだけとは思えなかった。だって眠りながらときおりこぼす寝言は、「ゆるして」という言葉だったから。きっと問題があるのは体じゃなくて心のほうだ。何かがあの人の心を蝕んでいるんだろう。

けれど謝られたり許しを請われたりするような覚えは正直ない。いや、全然ないかというとそうでもないけど、それはこの前ずいぶんいじめてくれたなとかそういうことで。真剣に詫びるような、そんなことではない。

いったい咲々牙に何があったのだろう。オレはどうしたらいいんだろう。
何もわからないまま許したとしてもきっとそれじゃだめな気がする。……直接話してくれたらいいのに。
今思うと昔から都合の悪いことはさりげなく交わされていたような気もする。いまさらそんな隠し事をするような仲じゃないとオレは思うんだけど。
咲々牙にとってはそれほどに重大なこと、なんだろうな。

きっと待っていても教えてはくれないからこちらから聞き出すしかない。
穏やかな寝息を立てる繊細な顔立ちを眺めながら決意を固める。
逃げられてしまうだろうけど、このままじゃきっとよくないから。まずは目を覚ましてもらわないといけないが。……今はこのまま隣で寝てしまおう。
密着して聞こえる心音は変わらず穏やかでどこか懐かしい気がした。

結局、3日ほど眠ってしまったらしい。この体になってから時間感覚はすっかりゆがんでしまった。

「おはよう、さつき……」
「おはよ、咲々牙。あのさ、」
「あのね」

まだぼんやりしていそうな咲々牙にさっそく問いかける。はずが、向こうからも切り出されてしまった。

「なに……?」
「鎖月も何か言おうとした?」
「あ、ああ。……先言っていいから」

つい癖で譲ってしまった。今聞いておくべきだったのにやってしまった。

「あのね、最近とても眠たいのは知っているでしょう?」
「うん」
「きっとね、鎖月と暮らし始めてから長くは眠ってなかったからかなって」
「うん……?」
「だから、ちょっとだけ眠らせて欲しいんだ」

それはさっきまでも眠ってたんじゃ……?と疑問を口に出す前に咲々牙が言葉を続ける。

「鎖月が揺さぶっても叩いても起きないくらいぐっすり眠るよ」
「叩いたりしないってば……!」
「もしもの話だよ」

……これは、困ったな。不調の原因を突き止められなくなってしまう。咲々牙が言うとおりならこれでいいんだろうけど、もし違ったら。解決できないままになってしまうじゃないか。

というか、これは逃げようとしているんじゃないかという気がする。よほど後ろめたいことがあるのか。なんで、いまさらそんな。
重大なことかもしれないと思うと切り出しにくくなってきた。なのでとりあえず目の前の疑問から聞いてみる。

「……そんなに熟睡するのに『ちょっと』なのか?」
「『ちょっとだけ』だよ。鎖月が淋しくなってしまうものね」
「また子供扱いして……!」

だけど実際それはそのとおりで。今はもう咲々牙のいない生活なんて考えられない。
……本当に「ちょっと」で済むのか?正直とても疑わしい。この人は昔からそういうところがある。
オレを一人ぼっちしたりはしないと信じたいけど。

「オレを置いていこうなんて考えてない、よな」
「そんなことしないよ」
「本当に?」
「…………ほんとう」

そう言った咲々牙の表情は、悲しさを隠して微笑んでいるような気がしてならなくて。どうしてこの人は、いつも自分の悲しみをなかったことにしてしまうのだろう。

思わず咲々牙のことを抱きしめていた。いつもよりも心音が静かに聞こえる。なだめるように背中をなでられる腕もどこか力弱くて、本当にいなくなってしまうような気がした。
だからこそ、咲々牙のことを信じたくて。そんなことないっ、ていなくならないって、ちょっと眠るだけだって。ほんの数日したらまた元通りに、変わらない微笑みを見せてくれるって証明してほしかった。
たとえ数日じゃなくても何ヶ月でも、何年でも何百年でも、オレを後悔させないって約束したこと覚えているって信じて。

「ずっと、待ってるから」
「大丈夫だよ。すぐによくなるよ」

本当にそんなふうに思ってる?口に出しかけた言葉を寸前で飲み込む。だめだ、信じると決めたんだから。

「私は地下の棺で眠るから、その間よろしくね」
「……ああ、誰にも邪魔させたりしないから安心して」

抱き寄せた体は少し離れてオレの頭をなでる。大好きな手。子供扱いみたいだって今はいい。もう当分こうしてはくれないだろうから。

「お腹が空いたら私をお食べ」
「咲々牙は」
「私は大丈夫。……鎖月と一緒にいるだけでおなかいっぱい」

「ああ、今もとても眠いよ」
「……それならもう、いいから。無理するなよ」

オレがそういうと頭の上の手は離れる。だけど名残惜しいなんて言えるわけもなく。
咲々牙は袖で目元をこすり、おぼつかない足取りで地下に向かう。

「危ないって……!」
「なんだかふらふらするね」
「もう……!」

まったく、危なっかしいったらありゃしない。仕方がないので咲々牙を抱えて運ぶことにする。……一度やってみたかったのは秘密だ。
抱えた体は身長のわりにふわりと軽くて、やっぱり儚い人だとそう感じられた。

そんなオレの気持ちをよそに咲々牙はこちらの髪の毛を指に絡めてもてあそんでいる。……そんなところも可愛いんだけどな。

以前と違って地下への階段は薄暗く感じなかった。なので明かりをつけることなくそのまま進む。本当は、咲々牙を離したくなかっただけなんだけど。
互いに無言のまま階段をくだる。このまま終わらずにずっと降り続けられたらよかったのに。そうしたら、咲々牙と。……考えると悲しくなる。やめよう。ずっと離ればなれになるわけじゃないんだから。大丈夫だと自分に言い聞かせる。足を進めるごとに別れが近づいているなんて、そんなことはないはずだから。

物置と化している層へ着くと咲々牙はオレの背中をトンとつついてアピールをする。おそるおそる降ろすと再び頭をなでられる。そして唇に柔らかな感触。

「あとは頼んだよ。眠っている間私のことは好きにしていいからね」
「もう、何言ってるんだよ……!」
「そのままの意味だよ?」

言っている意味はわかってる。だから動揺してるっていうのに、もう。人のことそんなに我慢できないと思って……!断じてそんなことはない。ないと思いたい。

「えーと、あとは……、それなりに換気してお掃除もして健康にも気をつけてね」
「いきなり普通のこと言いだすんだから」
「それじゃあ」

一人で入るには広すぎる重厚な棺。中身は柔らかなクッションになっているらしいそれに横たわる咲々牙。

「おやすみ」
「あ、ああ。おやすみ、咲々牙」

蓋は閉めないでもいいらしい。……何も掛けないのはいいのか?
後でいつも使っていた毛布を持ってきたほうがいいだろうな。
起きたときに喜んでもらえるように部屋も綺麗にしたいし、咲々牙の髪をみつあみできるようになって驚かせてやりたい。やらなきゃいけないことはたくさんある。
だから、大丈夫だ。信じているから。